陽だまりに眠る君




 昼食時には見かけた彼の姿が船内の何処にもないことに気が付いたのは、午後を幾らか回った頃だった。


 キカ率いる荒くれの海賊達が乗り込んでいるグリシェンデ号。群島諸国海域では海賊船の象徴と言われる6本マストをなびかせた航海は、穏やかで順調に進んでいた。
 本拠とする通称『海賊島』とオベル王国との堺の海域で、商船を一つ、潰した帰りである。いや、商船と騙っている賊の船であるのだが。
 キカ達一派は、海賊と言っても義賊としての行いを主にしている。勿論、そのやり方は粗暴なもので、法に照らせば罪となろうが、そうした方法で無くば正すことの出来ぬものもあるのだと、彼は理解していた。
 先の戦いにおける賊の腕はそれ程でもなく、皆大きな怪我も負わずに、今は海賊島に帰るだけの気楽な航海の途中であった。すでにキカの力が及ぶ海賊島付近の海域に入っていたから、乗組員達も気を緩めている。
 そんな状況だったから、彼の姿が見えずとも特に問題はなかったのだが、いつでも存在感があって目立つ彼の気配が感じられないことに、何故だか落ち着かないのだ。



 船内から甲板へと出れば、澄んだ空が広がり、薄い雲が天高くに架かっていた。穏やかな風が吹くばかりのそこは、陽に照らされて随分と温かい。その眩しい光に瞳を細めると、頭上から野太い声がかかった。
「シグルドじゃないか。何かあったか?」
 見張り台に在る仲間からの呼ばわりに、シグルドは見上げていた首をさらに上向けた。見張り台からは、甲板が見渡せる筈である。船内には見当たらなかった彼は、この何処かに居るかもしれなかった。シグルドは、マスト上方に造りつけられた見張り台に届くようにと、やや声を張り上げた。
「ハーヴェイを見ていないか?姿が見えないんだが」
「あいつなら、そっちだ。ここからも姿は確認出来ないが、甲板から出るとこも見てねぇから」
 ぞんざいに指差された場所は随分と曖昧で、けれどシグルドはありがとうと片手を上げてその方向へと向かう。限られた甲板内で迷うも何もない、そう思ったのだ。
 実際、彼の姿は程なくして見つかった。但し、教えられていなければ、そんなところに目を向けたりしないだろうと思われる場所に、だった。
 船後部に位置する、甲板より上部に張り出した操舵室部分を覆う壁の、その狭い脇を通り抜けてその先。数歩も行けばもう海へと落ちる、そんな僅かな空間だった。
 やや張り出した屋根部分に隠されて、見張り台からも視認の叶わないそんな場所を、如何にして見つけ果せたのだろうな、と。彼の姿を見つけて些か気の抜けたシグルドは、そんなことを考えていた。
 ハーヴェイは、ひさし部分が僅かに作る影に上半身を埋め、身体の大半を陽に晒してうたた寝ていた。温かな陽だまりを作るそこは、ひどく気分が良さそうだ。実際、彼はシグルドが傍らに居てもまるで気が付かないらしく、半開きの口元を緩めて、眠りこけている。
 その、子供のように無防備極まりない寝顔に、知らずシグルドは唇を綻ばせた。どうにも落ち着かなかった気分はすっかり霧散して、じんわりと心が温められるようだった。ただ、それがどういう心境からくるものだか、シグルドはまるで気が付いていなかったのだが。
 彼の、癖の在る茶色い髪が甲板に零れている。健康的に焼けた肌。シグルドよりもしっかりと筋のついた四肢。それを暫く眺めていたシグルドは、ころりと彼の隣に寝そべった。
 甲板の板張りは硬くて寝心地は悪かったけれど、温められた床の温もりは心地良い。降り注ぐ陽光も夏のそれとは違う柔らかいもので、その気分の良さにシグルドは笑みを深めた。成る程、午睡には持って来いの良い場所だ、と。こういう場所をいつのまにか手に入れている彼の要領の良さは、シグルドの羨む部分だった。
 真近に見るハーヴェイの寝顔を見ながら、シグルドは考えていた。いつの間にか、彼の隣に在ることが当たり前になっている。キカに拾われる以前は、憎しみさえ覚える相手であった筈なのに、それは知らずに溶かされていた。
 それと同時に、この新しい居場所にも馴染めた気がしていた。彼の存在が、意図してではないにしろ、シグルドが過ごしやすい状況を作ってくれていた気がするのだ。
 あっという間に彼らの輪に入ったハーヴェイが、シグルドの手を引いてその輪に加えてくれた。迷惑に感じていたその手を、厭わなくなったのはいつからだろう。いつの間にか馴染んだ手の温もりに、この陽だまりの温かさは似ている気がした。
「ハーヴェイ…」
 そっと名を呼ぶ。静かな波音に紛れてしまうほど小さな囁きだったから、ハーヴェイは目を覚ます気配もなかった。
 今はまだ、素直に感謝を表せないけれど。いつか、伝えられれば良いと思う。
 指を伸ばしてさらりと弄った彼の髪は、シグルドが思うよりも柔らかかった。



「キカ姉!ハーヴェイとシグルドの姿が見えねぇんですよ。どこかでさぼってやがるんじゃねぇですかい」
 操舵室に騒々しく入ってきたのは、キカの右腕と自負する男である。確かに、キカに一目置かれている存在で役に立つ男ではあったが、如何せん、問題を起すことも多い。だが、それをキカが殊更に咎める事もないから、皆も文句は言わずに受け入れている。彼が、憎めない人柄であることも要因であったが、キカが無能な人材を傍に置くことなどしないと知っているからでもある。
「パパ、さぼるだなんて…。シグルドさんは、パパの分まで書類を作ってくれてたんですよ?」
「あぁいう堅苦しいやつは、得意な奴にやらせときゃいい!俺は、他のところで役に立つ男だからなぁ!」
 ダリオの後を追って入ってきた少年が仲裁に入るが、聞く耳を持つつもりはないようだった。ダリオをパパと呼ぶ少年は、彼とは似つかわない、線が細く綺麗な顔立ちの子供だった。血は繋がっていないが、その絆は本当の親子よりも強いだろう。
 少年、ナレオは、そんな父の態度などいつものことなので、溜息をつくだけに留まる。
「…別に、問題はなかろう。放っておけ」
 キカは、彼らの姿が見えないことを知っていた。けれど、必要なときに在れば、それで良いのだ。その時を、誤る者達ではなかった。
「キカ姉はあいつらに甘すぎる!ナレオ!探しに行くぞ!」
「あ、パパ!キカ様、失礼します!」
 来た時同様、騒がしく出て行った彼らを見送って、窓外に視線を移す。見慣れた海の色が、我が家が近いことを知らせていた。



 ふと浮上した意識に、少年の声が聴こえた。
「パパ、邪魔しちゃ悪いですよ。そっとしておきませんか?」
「な、何言ってやがる!そうやって皆が甘やかすから、こうやってだらけるんだろうが!」
「でも…こんなによく眠っているのに…可哀想ですよ」
 傍らで、二人の人間が言い合っているようだった。聞き知った声なのはわかっていたから、目覚めは緩慢だった。それでも、一度覚醒を始めてしまえば浮上までにはそれ程かからず、彼はぱちりと瞳を開けた。
 その瞬間にぎょっと身を固める。ほんの数センチ先に迫る、秀麗な面立ち。黒い髪がさらりと額に零れ落ちて、何処か幼げな風情で瞳を瞑っていた。長い睫毛の細部まで見て取れそうな程のその近さで見る綺麗な相貌に、暫し魅入ってしまう。
「おいっ!起きやがれ!」
 頭上で聞こえた怒鳴り声に、ハーヴェイはがばりと身を起した。傍らでダリオが腕を組んでこちらを睨んでいる。その背後にはナレオも居て、先ほど夢うつつで聞こえた声が二人のものだと気が付いた。
「全く、こんなところで寝てやがるとは!キカ姉にもがつんと言ってもらわねぇと!」
「……うるせ…」
「あぁ!?今、何か言ったか?」
「パパ!ほら、ハーヴェイさんも目が覚めたみたいだし、もういいでしょう?」
 ダリオとハーヴェイの仲が悪いことは周知の事実で、ナレオが慌ててダリオの腕を引いた。何やら声を荒げるダリオを宥めながら、ナレオが慣れた様子でダリオをその場から連れ出して行く。その途中、ふとナレオが振り返った。
「あと、一時間くらいで海賊島に着くと思いますから…もう少し、時間がありますよ」
 にこりと微笑んでそう言った彼には何ら含むところはないのだろうが、ハーヴェイは内心を言い当てられてどきりとする。至近で無防備に眠る彼を認めて、起してしまうには惜しいと思っていた。不埒を働こうと思ったわけではなかったが、出来るならそうしたい気分ではあったのだ。だから、ナレオがダリオを連れ帰ってくれることがありがたかった。
 曖昧に頷いたハーヴェイを不審に思うでもなく、彼らはその場を去った。再び静かな波音だけに戻った空間で、ハーヴェイはそっと視線を下ろした。
 あの騒ぎだったにも拘らず、変わらず穏やかな寝息を立てている相棒を見る。こういうところが変に抜けている青年は、けれど、こんな無防備な姿を晒すところを見たのは初めてだった。長身の彼から見下ろされてばかり居るハーヴェイにとっては、こうして見下ろす格好になるのも稀である。
 額に零れる髪の触り心地が良さそうで、指を伸ばして触れてみる。さらりと指を零れたそれは、思ったとおりに心地が良かった。
 ころん、とシグルドが仰向けに転がった。目が覚めたのかと指を引っ込めるが、変わらぬ寝息が零れていて、ハーヴェイはシグルドに顔を寄せた。吐息が触れ合うほどに近い距離。
「…そんなに無防備だと、喰うぞ」
 囁きは小さくて、勿論シグルドは目を覚まさなかった。けれど、ふいに笑みを浮かべた彼に面食らう。いつもは、大人ぶった顔をしているのに、子供っぽいその笑みはひどく可愛らしくて、ハーヴェイは小さく吹き出した。
「いいや。これで、我慢だ」
 零れる前髪を掻き揚げて秀でた額に口付けを一つ。幼子にするようなそれだけを施して、ハーヴェイは彼方まで広がる海と空を見た。
 シグルドは鈍くて、ハーヴェイの気持ちには気が付いていないだろう。ハーヴェイ自身も、最近になって自覚した気持ちだったから、気付かなくても当然ではあったが。
 シグルドに嫌われていない自覚はある。昔はどうだか知らないが、今はそうだ。ただ、それがハーヴェイと同じものではないことも知っている。
「…脈は、あるよな」
 呟いた言葉は自信に満ちていて。近い未来にそれが実証されることになるが、それまでには今しばらくの時間と、ハーヴェイの努力が必要となる。







ハーヴェイ自覚あり、シグルド自覚無しな片恋でのハーシグでした。
くっついてからはらぶらぶにしておけば良いけど
片恋となると難しいということに書いてから気付きました(笑)
午睡ネタは好きです。このすれ違いな想いの告げ合いとか(笑)