デュナンの地でマイクロトフの名を聞けば、皆が一人の男を思い出すだろう。マチルダ騎士団で若くして団長を務め、騎士の名を捨てても己の誇りを護り、結果としてマチルダとデュナンを救う担い手の一人となった英雄に等しき男。凛々しく雄々しい美丈夫の、騎士の名を冠するにこれ以上の者はいないだろうと思わせる真っ直ぐな青年の姿を。 しかし、今、その英雄とも詠われる男は、心底困り果てていた。戦場にあって多くの敵に囲まれる状況にあっても、これ程には困らなかったのではないかと思われた。 「…どうしたら良いんだ…」 呟きに答える者はおらず、赤子の甲高い泣き声が響くばかりだった。 腕の中には己の一番末の息子があった。2歳になったその息子は、未だに赤子と呼べる小さな子供で、今、盛大な泣き声をあげて泣き続けていた。 よしよしと上体を揺らしながらあやすものの、一向に泣き止む気配がないまま、もう10分近くも経っている。ほとほと困りながらも、どうする事も出来ずに、ひたすら助けが来るのを待つしかなかった。 『すぐ戻るよ。よく眠っているから、大丈夫』 そう言ってカミューが買い物に出たのがおよそ30分程前か。昼寝中だった息子、マイクロトフ(Jr)は確かによく眠っていた。眠り始めてそう時間も経っておらず、確かに普段ならばあと30分は悠に眠っていた筈だったのだ。 しかし、傍からカミューの気配が消えたことにいち早く気付いたのだろうか。数十分足らずで目を覚ましてしまったのだ。傍で本を読みながら息子の眠りを護っていたマイクロトフは心底慌てた。Jrは殊更カミューと兄であるカミュー(Jr)に懐いており、その二人が傍に居ないとなれば、泣き出すのは目に見えていた。しかも間の悪いことに、今日はカミュー(Jr)も近くの道場に通いに出ている時間だった。泣き出したマイクロトフ(Jr)をあやすことが出来るのは、一家の中でこの二人だけなのだ。 予想に違わず、Jrは起き上がって周囲をきょろきょろと見回した。何処にも慕わしい二人の姿が見えないと知るや、あっという間に瞳に涙が溢れ、大声で泣き出してしまった。慌てて抱き上げてあやし始めるが、どうにも出来ないまま、今に至っているというわけだった。 びや〜ん!びえ〜!と泣き続けるJrに困るのは、その大きな泣き声に辟易しているからではない。こんな小さな赤子がこうして泣くには、それ相応に体力も気力もすり減らしているのだ。仮にも父である身で、どうにもしてやれない自分が心底情けなく思う。 「…カミューも兄も直に戻るぞ。大丈夫だ」 背を撫でてやりながらあやし続け、泣き始めてから10分を過ぎようかという頃だった。戸口に人の気配があり、ただいま、との声と共に、カミューが小走りにやってきた。泣き声が耳に入ったのだろう。これだけの音量ならば、外にも聞こえているに違いない。マイクロトフはカミューの姿にほっと安堵の溜息を吐いた。 Jrもカミューに気付いたらしい。かみぅ、かみぅと泣きながら小さな腕を伸ばすのに、マイクロトフはカミューにJrを預けた。カミューの腕に抱かれた途端に泣き声は小さくなり、すぐにぐすぐすと鼻を啜る程度にまで泣き止んだ。カミューが己がするのと変わりないだろう様で、上体を緩く揺らし、背を撫でる。それをする人間が違うだけで、これ程にも変わるものかと感嘆する。 暫くそうしてカミューが抱いている内に、やはり泣き疲れていたのだろう。Jrはまた眠りに落ちていた。泣き塗れた頬を拭ってやり、漸く安心したらしい息子の様子にもう一度安堵の溜息を吐いた。 「…すまない、カミュー。目を覚ましてしまってな。泣き止まずに困っていた」 「謝らなくても良いよ。ちょっと怖い夢でも見たのだろうね。あんな風に泣くのは、あまりないんだよ」 「…そうなのか?」 カミューには、マイクロトフの胸の内が分かって居るのかもしれない。柔らかに笑みを零しながら頷いた。 「確かにこの子は私やカミュー(Jr)に懐いているけれど、お前だってちゃんとそうだ」 「そうだろうか…」 些か自信が持てずにそう言えば、カミューが笑いながら話して聞かせてくれた。 「お前が2・3日家を空けたことがあるだろう?商隊の護衛だったと思うが」 「あぁ、あったな」 「お前が居ない間は、この子がちっとも眠ってくれなかったんだ。ほら、お休みのキスをするだろう?あれを待ってたみたいでね。まいくは?まいくは?って何度も聞かれて困った」 「…そう、か…」 初めて聞いた話で、マイクロトフは少し驚いた。子供達は基本的にカミューに懐いている。だから、彼が傍に在れば心配はいらないといつも思っていたのだった。 「カミュー(Jr)もそう。よく眠れなくなるみたいで、お前が居ない日は三人で一緒に眠ってたよ」 「…すまない。これからは、家を空けるような仕事は請けないように努める」 「そうしてくれると、子供達も安心すると思うよ」 知らなかったとはいえ、子供達に不安な想いをさせていたらしかった。そして、言いはしないが、カミューもだ。マイクロトフはJrごとカミューの身をそっと腕に囲った。 「…不甲斐ない父で、すまないな」 「どうしてだい?最高の父親で、最高の伴侶だよ、マイクロトフ」 肩に頬を摺り寄せるカミューに、言われたものと同じ言葉を返すと共に、照れ臭い気持ちになりながらも、ありがとう、と礼を告げた。
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