手にした教本から視線を上げて、歳の離れた弟の様子を伺った。弟は真剣な顔をして目の前の『山』を睨んでいる。 今日は父様がお休みの日だった。昼の間にずっと父様の姿があるのは珍しくて、嬉しいけれど少し変な感じだ。 パパは、父様を休ませてあげようと家事の一手を引き受けて、今も昼食を作る為にキッチンに立っていた。だから、まだ小さい弟の面倒は僕と父様の仕事だった。 日当たりの良いラグに隣り合って座して、僕は幼年学校の教本を、父様はカマロ自由騎士団からの魔物や盗賊の頒布図を眺めている。弟はその周りをうろうろちょろちょろ、好きなように遊んでいた。下手に構うと嫌がるから、基本的に彼の好きにさせるようにしているのだ。 そうしてうろうろしていた弟は、山の登頂を試みることにしたらしい。彼にしたら、聳え立つ山に身体ごと飛びついた。飛びついたつもりなのだろうが、赤ん坊の身だから、ただ張り付いただけにすぎない。 それなりに勢いのある体当たりだったと思うけれど、肝心の『山』はびくともしていなかった。山の視線は相変わらず手に取った図面の内にあり、後ろから飛び掛る小さな者のことなど気にも留めていないように見える。 でも、カミュー(Jr)は知っていた。父様は見ていなくても、ずっとマイクロトフ(Jr)の気配を気に留めているのだと。 マイクロトフ(Jr)は山の、つまりは父様の背中にしがみつきその服を小さな拳で握り締め、一生懸命に登ろうと足掻いている。片足を引っ掛けようとしては滑り、小さな足で背伸びをしてみては重いお尻に邪魔されて座り込む。 カミュー(Jr)は内心でくすくすと笑いながら様子を見ていれば、急に山が動いた。手にしていた図面をラグに置き、身を屈めたのだ。垂直だった山は緩やかな丘になった。途端に弟の顔が輝いた。彼にも今が好機だとわかったのだろう。 勢い良く山に飛び掛り、その山にしがみ付く事に成功する。そのまま、まん丸の身体をハイハイの要領で登らせ、ついに頂上へ辿り着いた。父様の肩に跨って座り、きゃっきゃと上機嫌だ。 図面を見ていた父様が、小さく苦笑するのが見えた。父様も弟の登頂を面白がっていたらしい。何でも真面目に取り合う父様の、滅多に見ない顔だった。 父様の大きな手が、弟の両足にかかった。 「Jr、しっかりと掴まれ」 笑いを含みながらもしっかりとした父様の言いつけに、マイクロトフ(Jr)は生真面目な表情でそれに従った。抱えるように父様の頭にしがみ付いたことを確認して、父様が傾けていた上体を起こして立ち上がった。高くなった目線に、弟がまた大喜びの声を上げた。 「随分と楽しそうじゃないか」 頭上からかかった声に、カミュー(Jr)は顔を上げた。キッチンに居た筈のパパが、笑いながら隣に来ていた。 「Jrくらいじゃ、軽いのだろう?」 「軽いな。まだ赤子だ」 「じゃあ、これでどうかな?」 パパと父様の会話を他人事として聞いていたカミュー(Jr)だったのだが、ひょいと抱えあげられて驚きの声を上げた。パパが抱き上げたのだ。抱き上げられた身体は、父様の背中に乗せられた。すぐに離れた腕に、慌てて落ちないように父様の背中にぶら下がってしがみ付いた。それでも父様にはさして負担はないのか、少し揺れた上体もすぐに体勢を整え、おんぶしたカミュー(Jr)が落ちないようにと背に腕が回された。 「カミュー!危ないだろう!」 「重くなったかい?」 「そうではない、カミューが怪我でもしたらどうする」 「そうか、まだ平気なんだね」 形良い唇に笑みを刻んだそのパパの顔はとても綺麗だけれど、良からぬ事を考えているのがありありとわかるものだったから、父様がうっと顎を引いた。 「カミュー、何をする気…」 父様が言い終える前に、父様の上体が前に傾いだ。パパが首にぶら下がったからだ。肩に赤子を一人、背中に少年を一人。そこまでは軽いものだろうが、首に青年を一人ぶら下げるのは重いだろう。父様は僕を支えていた腕とは反対の腕を、ぶら下がるパパの身体に巻きつけた。片腕だけでパパを抱き上げた父様が、眉間に大きな皺を寄せながら唸った。 「…重い……」 「…何だか、腹の立つ言われようだな、それは」 「成人男子の身が、そう軽い筈はなかろうが」 大きな溜息を吐いた父様に、パパが笑みを閃かせた。パパが父様にだけ見せるもので、こうしてたまたま垣間見てしまった時には、何故だか赤面してしまう笑みだ。 「…私を寝台に運ぶ時には、重いなんて一言も言ったことがないのに?」 「な…!?カミュー…!!」 父様の顔が真っ赤になったのがわかった。こちらから見える耳が真っ赤になったからだった。僕は何も聞かなかった、何も見なかった、と心で唱えた。パパはどうかわからないが、きっと父様の頭からは、僕らが居ることが吹っ飛んでいるに違いない。重いのなら降ろせば良いものを、パパに抱きつかれるとその身を離す気など起きないのだろう。三人の家族をその身に抱えたまま、父様は慌てている。僕は父様を助けてあげることにした。 「パパ、お料理は良いの?焦げちゃっていない?」 「うん。そろそろかき混ぜて来ないとね」 笑ったパパのその笑顔は、いつものパパの笑顔だった。あっさりと父様から身を離すと、小走りにキッチンに向かった。その背を見送った父様が、ゆっくりと身を屈めた。その促しに従って背中から降りる。温かくて大きくて、父様の背中は大好きだから、少し惜しいような気がするけれど、これ以上父様を困らせてはいけないだろう。 「すまんが、少しJrを見ていてくれるか?」 「うん、良いよ」 肩から降ろされたマイクロトフ(Jr)は少し不満そうだったが、僕のお膝に座らせたら、それで機嫌は直ったようでほっとする。 すまんな、ともう一度詫びた父様は、パパを追ってキッチンに向かった。 今日は父様の久しぶりの休日だった。ずっと僕らが父様を二人占めしていたけれど、パパもきっと父様を独り占めしたいに決まってる。パパは僕らのためにそれを我慢して居る。パパのことも、僕らはいつでも二人占めしている。父様も、パパを独り占めしたいのを我慢して居るんだ。 少しくらい、僕らの父様とパパから、お互いの恋人にしてあげなくちゃいけないよね。
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