眠りに落ちる前に




 出迎えてくれた恋人の姿を見た瞬間、本当はそこでくたりと座り込んでしまいたい位に疲れていた。そのままころりと寝転んだら1秒もせずに眠れる自信もあった。ただそれをしなかったのは、未だ周囲に部下達が居たからにすぎない。
 共に戦い生きて戻った部下達も、己に勝るとも劣らない程に疲労困憊している。既に医務室に運ばれた部下達は怪我も負っている。己はその中にあって軽傷の身であり、団長としての優遇も受けていた。そんな彼らの前にあって疲れた顔など出来る筈もないし、そんな素振りを少しでも見せようものなら、彼らに無駄な気を使わせてしまうだけだった。
 だから表向きは、何の疲れも眠気も感じさせない、平時と変わらぬ笑みを湛えて恋人と相対した。部下達に労いの言葉をかけ、ゆっくり身体を休めるよう告げる。そうして背を向け歩くこと暫し。張り番の騎士にやはり笑顔で労いの言葉をかけ、その目が届かぬ己の私室の前に来て、ふつりと緊張の糸が切れた。傍に彼が、マイクロトフが居てくれたから、実際は意図して切ったと言う方が適切だったかもしれなかったが。
「カミュー…!」
 扉を開けることもしない内に石造りの床にへたりこんだカミューを、マイクロトフが慌てて抱き止めた。その時には既にカミューの意識はほぼ眠りの内を漂っている。
「…あれ程平気そうな顔をしていた癖にな…」
 嫌味にも取れる言葉は、しかしとても優しく甘い。ふわりと身体が浮き、温かな彼の体温が疲れた身体に沁みた。揺り篭のように揺れる彼の腕の中、心地良い気分のままにカミューは意識を手放そうとした。
「…お帰り、無事に戻ってなによりだ」
 マイクロトフの真摯な言葉に少しだけ意識が引かれ、カミューは唇を動かす。
『…ただいま』
 果たして、唇から零れたのは微かな吐息だけ。唇の動きさえ、言葉を刻む形に動いたのかどうか。けれど、密着した彼の肺が僅かに振動し、小さく笑ったのが分かった。
 己を見るマイクロトフの、愛しげに瞳を細める様が見たい、そう思う意識はあれど、柔らかな寝台に運ばれて身を沈めれば、急速な眠気に容易く浚われていき、瞳を開けることが叶わない。
「…眠って良いぞ」
 また、マイクロトフの優しい声がする。軽鎧の留め金が外され、するすると着衣を解かれれば、身体が羽根のように軽くなった。どうしてもカミューを深い眠りへと誘おうとする手を払うように、カミューは頭を振る。さらりと僅かな音をたて、数本の髪がシーツを撫でるに留めたその動きを見て、マイクロトフは少しの呆れを伴なった微笑を溢したようだ。小さく吐息が聞こえた。
「強情だな。眠いのだろう」
 外気に晒された肌に、温かで柔らかな感触が触れた。ゆっくりと身を清めてゆくその動きが心地良い。既に麻痺して等しかった血と埃と汗の匂い、それらの汚れが消えていくのが分かる。頭皮を撫でるようにマイクロトフの指が髪の間を滑り梳いていく。
『…止せ…』
 拒絶の言葉は、眠りに誘おうとするマイクロトフの手に対してか、それとも己を引きずり下ろそうとする睡魔そのものにだろうか。言葉を発したカミュー本人にも実はよく分かっていない。言葉として発せられたかどうかも怪しい。それでもマイクロトフには分かるのだろうか。再び苦笑が零れ、瞼に掌があてられた。
「眠れ、カミュー」
『…眠りたく、ない…』
 さっぱりと清められた身に、さらりとした布が着せ掛けられた。己のことを、彼がどんな表情で見ているのかなんて手に取るように分かる。けれど、それを瞳に映すことが出来ずにいる己がままならず、相対する言葉は天邪鬼なものばかりになってしまう。
 彼の元に戻った己が誇らしい。彼に迎えられることが幸福で、彼の優しさに感謝の気持ちも伝えたい。意識の端にはあるそれらは、彼が恋人として己を見つめる顔が見たいという些細で我侭な望みに追いやられてしまっている。
 大きな掌が両頬を包むようにして触れた。額が触れあい、吐息が触れ合う距離でマイクロトフが囁く。
「…俺の為に眠ってくれ」
 唇に触れるだけの口付けが落ちた。それは、眠る前のおやすみのキス。こうなってはもう、カミューの我侭も薄氷の如くに解けるというもの。柔らかな眠りが、意識を深い闇に浚う。
『…ずるい』
 眠りに落ちる寸前の言葉は届いたのかどうか。確認する間もなかったカミューには知る由もなかったが、穏やかな呼吸で深い眠りについた恋人を、マイクロトフは眉を下げて見つめていた。
「ずるいのはお前の方だ。そんな顔で俺を惑わせてくれるな」
 その表情は、カミューが見たいと望んでいた大好きなそれだった。







疲労と睡魔で何も出来ない、赤さん版。
考えてたものとまた違う感じになってしまいました。
可愛らしく寝惚ける赤さんを書く筈だったんだけどなぁ(笑)