泥の塊になったかのような己の身を、かろうじて残る気力と矜持で持ち堪えさせられたのは部下の前でだけ。疲労を表に出さず、背を曲げる事も無い彼の姿は、部下達の目には毅然として見えたろう。 その気力も、人目の無くなった己の部屋の扉を閉めた瞬間に霧散した。扉に背を預け、ずるずると床に沈む。辛うじて上げた右手の指が、軽鎧の留め金を外し、しかし身体を動かせたのもそこまでだった。 普段は感じない軽鎧の重さは今は鉄塊のように重く、それが外れた瞬間は空も飛べるかと思える程に身が軽くなった。こびり付く血臭と埃と汗、それらの強い匂いも既に麻痺した嗅覚には何も感じられず、只僅かな理性だけが、湯を使い身を清めねばと訴える。 しかしその理性も抗えぬ強烈な睡魔にすぐさま掻き消され、彼の意識は深い闇の内に落ちた。 深く落ちた意識を掠めたのは、預けた背にかかる振動。それは、扉を開けようとする動きだったのだが、そこまでの覚醒に至らぬ彼の意識ではそれを理解出来ない。 常ならば不審な気配に対してこうも鈍感ではいられない。こうまで彼の意識が鈍くあれたのは、ここがそう簡単に進入者を許すことの無い騎士団長の私室であるということと、その私室に訪れることが出来る者が限られていること、そして、扉をそっと潜る者の気配が彼に、マイクロトフに馴染んだものだったからだった。 「…マイクロトフ」 柔らかな心地良い声が己の名を呼ぶのを、たゆたう波の中に居るような心地で聞いていた。 「…お帰り」 『…あぁ、ただいま』 彼はそう答えた。答えたつもりで居る。傍らの優しい気配が己の頬に触れ、柔らかな感触を唇に溢した。すぐに離れてしまったそれを追おうと腕を伸ばした。鉛のように重い腕は、恐らく上がらなかったろうが、彼の意識は腕を上げ、何を掴む事も無く黒い闇の宙を掻いた。その指先が酷く冷たく感じた。 慕わしい気配が遠のき、また睡魔が意識を攫って行きそうになった時、身体が一段と軽くなった気がした。肌に温かで柔らかな感触が触れ、それらが顔・首筋・胸元と降りて身体を拭ってゆく。その心地良さに初めてほっと息を吐いた。 「…無事で良かった」 己を案じる声に、ふと口元に笑みを刻む。 「ご苦労様、ゆっくりお休み…」 拭われた肌をさらりとした布の感触が包む。更にそれを包むように温かなものに全身を覆われた。安堵と同時に、安穏と眠ってはいけない気持ちがそれを拒む。 『…カミュー』 呼んだ声は声になっていたのかどうか。分からないまま、言葉を紡ぐ。 『…沢山、死なせた』 『……沢山、殺した』 頬の辺りをふわふわとした感触が触れた。それは、カミューの髪の感触だ。肩にかかる僅かな重みと温もりも。 「お前は、生きている」 優しく力強い声が、マイクロトフを慰撫する。 『…そうだ…生きている…』 騎士として戦い、殺し、部下を亡くし、己は生きてここに帰った。カミューの所へ。 辛うじて現にあった意識はもう睡魔に抗わなかった。引き込まれた闇の内は温かで心地が良かった。 早朝の陽が室内に一筋差し込むと同時に、マイクロトフは目を覚ました。扉に身を預け座り込んだままの姿で過ごした一晩は、戦の後の身には流石に辛く、節々がぎしりと音を鳴らすようだった。それでも、マイクロトフの目覚めは幸福だった。 己と肩を並べて眠るのは、マイクロトフの唯一の人。一枚きりの毛布の端を身体に巻きつけて、未だ眠りの中に居る。城で待つ彼が、決して楽をしていたとは思わない。疲れを見せる瞼の下をそっと撫で、マイクロトフは彼の身を慎重に抱え上げた。今朝くらいは早朝鍛錬も休んで良いだろう。部下達とて、充分な休息が必要だ。 柔らかで清潔な寝台にカミューを横たえ、彼には珍しい朝寝をする為に、己もその隣りに身を滑らせた。 この部屋に戻ってからの記憶がマイクロトフには曖昧だった。ただ、汗と埃を拭い、清潔な夜着に替えてくれたのはカミューだと知っていた。今だけは、カミューの傍らに己が在ること、それだけで良かった。
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