子供たちの笑い声が澄んだ青空に吸い込まれてゆく。 乳飲み子を抱く母親の柔らかな笑顔に木漏れ日が揺れる。 穏やかで、幸福な時間。 時刻を確認する。そろそろ約束の時間だった。 壮年の男はベンチから腰を上げた。 「お父さん」 白い病室には光が溢れていた。 娘の笑顔。その隣りには、生まれたばかりの小さな命。 多大な未来の可能性を秘めた、彼の孫娘。 彼が、護りたかったもの。 皺の増えた手を差し伸べれば、もみじの形の小さな手が、ぎゅっと指を握った。 『真朱』 真朱と名のついた孫娘が、花開くように笑った。 はっとする。 何処かから戻ってきたような感覚。 子供たちの笑い声が澄んだ青空に吸い込まれてゆく。 乳飲み子を抱く母親の柔らかな笑顔に木漏れ日が揺れる。 目の前に広がる光景は、先程と変わらない。 ほっとすると同時に、この世界と引き換えに失ったもののことを、考えた。 少年はベンチから腰を上げた。 『再就職先がね、決まったんだよ』 はにかんだ笑みを浮かべ、彼は言った。 『若い子たちにね、学ばせて欲しいって。……わたしなんかの経験でも、役に立つんだってね、嬉しかったよ』 初めて見る、希望に満ちた顔だった。 『……夢を追うとか、諦めてたんだけどな』 コーヒー牛乳のパック。そのバーコードを機械的に読み取らせながら、彼は言った。 『お前の言うフツウとは違うだろうけど、俺は夢を追うことにしたよ』 顔を上げた彼は、笑顔だった。 『3人目の子が無事に生まれてね。男の子だったよ』 穏やかな笑みをたたえた彼が、写真を見せてくれた。 『親馬鹿だと思われるかもしれないが、妻に似た可愛い子だろう?』 奥さんが抱いている赤子は、彼のアセットに似ている気がした。 表紙に彼の姿を見つけて雑誌を手に取った。 数ページ捲ると、沢山の子供たちの笑顔に囲まれた、彼の写真があった。 綺麗な手を土まみれにして、畑を耕している。 金の髪を砂漠の砂にまみれさせながら、小さいが青々とした木々を植えている。 やせ細った少女の手に、湯気の上る小さな椀を差し出している。 『見返りなんて、求めたことはないですよ。もう僕は、余るほど受け取っているんです。あの子たちの笑顔、未来の可能性をね』 彼の足は大地を踏みしめ、今と未来に向かってしっかりと歩いていた。 『公麿?久しぶりだね』 振り返れば、笑顔で手を振る彼女がいた。 『……わたしの彼ね、全然お金、持ってないんだ』 青空を仰いで彼女は言った。何処か、嬉しそうに。 『でもね、彼、小学校一つ建て替えちゃったんだ。凄いでしょ?』 浮かぶ、誇らしげな笑顔。 『お金はないけど、凄く一生懸命でさ。募金とか始めてね、寄付金募るのにお金持ちのところに片っ端からメール送ったり、電話したりさ。……そんなことで変わるはずないって、最初は思ってた』 ふわりと風が彼女の髪を撫でた。 『わたし、そこの子供たちの先生になるの』 真っ直ぐな瞳が彼を見つめた。 『お金はお金でしかないと思ってた。でも、わたしの持ってる千円札と、彼が集めた小銭ばっかりの千円は、違うってわかった』 ワンピースの裾を翻し、じゃあねと手を振り彼女は駆け去った。 ずっと眩しかった彼女の姿は、今はもっと眩しかった。 高台から都心を眺めた。立ち並ぶビル。一つを除けば、たぶん、変わらない風景。 変わってしまったビルの屋上、そこに、かつてあった庭園はない。 『キミは、確かに未来の可能性を取り戻した』 少し下がったサングラスの奥の瞳が、少しだけ揺れた。 『……でも、その見返りで、キミの未来の可能性が失われたことには、申し訳なく思ってる』 苦い顔を隠すように、ポテトが目の前に突きつけられた。 受け取らず、その場を去った。 「俺は、未来の可能性を取り戻したよ。あんたが望んだ世界と、同じだと思ってる」 ビル風が吹き上げ、深く被っていたフードを吹き飛ばした。癖のある髪が風に踊る。 「……でも俺は、大切なものを失った」 「三國さんの未来の可能性、それは、俺と三國さんの未来の可能性を失うことと、同じだった」 もう一度、フードを被りなおした。 唯一の、失われた可能性。 彼は世界の何処にもいない。何処にも。
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