周囲の声はもう聴こえない。風景も見えない。見るべきはオボロの放つ剣戟の軌跡、聴くべきは彼の呼吸と裂ける空気の音だ。 格段に腕を上げた今では、組み手での指導も出来なくなりつつある。嬉しくもあるが、背筋に走る興奮の方が勝るだろうか。彼にとって、武における好敵手は多くないのだから。 懐に入る間合いを計るオボロとの距離を保ちながら、彼の二刀を弾き続ける。彼の鋭い突きを捌いた一瞬にオボロの体勢が乱れた。 「そこです!」 返した槍の柄がオボロを襲う。しかし、本来ならそれは避けられる筈の攻撃だった。 「っ……」 避けようと跳んだオボロが息を呑んだのは、ベナウィの攻撃によってではない。何かに気を取られた所為だ。その何かに、ベナウィも瞬時に気が付いた。 「くっ……!」 無理やり軌道を捻じ曲げる。それでもオボロのこめかみに向けて槍が唸った。彼の上げた腕は防御に間に合わない。ベナウィは槍を手放した。手放した槍も急には動きを止める事は無い。 どっと土煙が上がり、地面に叩き付けられる。咄嗟に彼を腕に庇ったつもりだったが、何処までそれが可能だったかは分からない。 「大将っ!!」 頭上から聞こえた声はクロウのものだ。ベナウィはクロウの懐の中に居た。吹き飛んだ二人を庇ったようだ。二人の組み手を見学していた彼は、丁度吹き飛ぶ先に居た。それでも、あの瞬間に走りこんで来られたのは、クロウだったからだろう。 ベナウィの腕の中にはオボロが居る。大きな怪我は無さそうだったが、彼には意識が無かった。 「若大将!?おい、大丈夫……」 「動かしてはいけません!」 「と、すいやせん」 ベナウィの鋭い静止にクロウの動きが止まる。オボロの身を極力動かさないように己の膝に頭を乗せた。 「エルルゥ様をここに。脳震盪を起こしているようです」 「う、うぃっス!」 クロウは一人の少年を腕に抱えて走り去った。オボロが飛び退く先に、その少年が居たのだ。だから彼は攻撃を避けきれなかった。恐らく少年に怪我は無いが、念の為に薬師の元に連れて行くのだろう。何故城内の、このような場所に入り込んだのかも問う必要がある。 「……オボロ」 「……っ、う……」 声をかければ反応があった。ほっと息を吐く。 「動いてはいけません。軽い脳震盪だとは思いますが、エルルゥ様を呼んであります」 彼の額に手を当てる。暫く彷徨った視線は、次第に光を取り戻した。 「……子供は」 「クロウが薬師の元に連れて行ったようです。恐らくですが、怪我は無いでしょう」 「そうか……」 安堵の微笑を浮かべたオボロが身を起こした。既に意識はしっかりしているようだ。 「吐き気や眩暈はありますか」 「……いや。掠っただけだったが、衝撃を喰らった」 「記憶障害は……子供のことを覚えていたのなら、問題ありませんね」 「あぁ」 彼が無意識に伸ばしたこめかみに、ベナウィも指を伸ばした。髪を掻き揚げたそこには擦り傷があったが、大きな出血は無かった。 「軽傷で済んだようですね。……良かった」 「お前に怪我は無いのか」 「えぇ、問題ありません」 立ち上がろうとする彼に手を添えた。ベナウィに支えられて立ち上がったが、その足はしっかりと大地を踏んでいる。暫く安静が必要だろうけれど、大事無く済みそうだった。 「オボロさん、ベナウィさん!」 クロウを伴ってエルルゥが姿を現した。後は彼女に任せて大丈夫だろう。 「後のことは処理しておきます。貴方は体をお休めなさい」 クロウの元に向かおうとしたベナウィを、オボロが掴んで止めた。 「……ベナウィ、お前、手首をどうした」 冷やりとした。けれど、表情にそれは現れてはいない。 「何の事でしょうか」 オボロは腕を放してはくれなかった。彼の瞳が射るようにベナウィを見る。 「痛めただろう。お前も治療を受けていけ」 「……薬師の手を煩わせる程のものではありません」 溜息を一つ。誤魔化しは効かないと分かり、正直に答えた。無理に槍の軌道を変えた為に、手首を捻ったのだ。 彼は、まだ腕を放さない。 「分かりました。処置はします。けれど、この程度は自分で出来ます。それで宜しいですか」 「あぁ、それで良い」 漸く手が離れた。二人の邪魔をしない為か、クロウとエルルゥは遠巻きにこちらの様子を伺っている。これ以上は不審を抱かせかねない。目配せすれば、クロウに促されてエルルゥが駆けてきた。 「後でお前の部屋に行く。一人ではやり難いだろう」 ベナウィに返答をする間は与えられず、駆け寄るエルルゥにオボロを任せ、クロウの元へと向かうしかなかった。 「クロウ、ご苦労でした」 「うぃっス!若大将、意識が戻りやしたか」 彼の無事な姿を確認してほっとした様子だ。 「えぇ。あの様子ならば、大事無いでしょう。それで、クロウ。あの子供はどうなりましたか」 「一応、薬師の所に預けてきやしたが、問題ないようで。行商人の子供だったようですが、迷って練兵場まで入り込んじまったみたいですね。迎えに来るよう伝令を遣わせやした」 「そうですか」 「大将は、お怪我は無いんで?」 「問題無いでしょうが……一度部屋に戻ろうと思います。後を任せられますか」 「勿論ですぜ、大将!たまにはゆっくり休んで下せぇ」 「貴方も念の為、薬師に診て貰いなさい。その後は自室で休むように。分かりましたね」 吹き飛ぶ二人を庇ったクロウも、何処か痛めた可能性がある。それを懸念したのだが、クロウは眉を下げた。 「大げさでしょうや、それは。何かあったら休ませて貰いやすから。それで良いでしょう」 「分かりました。報告は夕刻で構いません」 「うぃっス!」 幾つかクロウに指示を与えると、ベナウィは真っ直ぐ自室へと向かった。部屋に来ると言ったオボロの言葉は嘘では無いだろう。それならば、待たねばならないからだ。 「……気付かれるようでは、私もまだ甘い、ということでしょうか」 手首を摩り、そっと笑った。 包帯・綿紗(ガーゼ)・ツェツェ草を混ぜ込んだ軟膏・消毒薬など、必要なものを揃えた頃、扉を叩く者があった。 「オボロだ。ベナウィは居るか」 「どうぞ、お入りなさい」 彼は勧められた円座には座らず、置かれた手当ての道具を手に取った。 「もう済ませたのか?」 「いいえ、これからしようと思っていたところです」 「そうか」 何処か嬉しそうにベナウィの前に腰を落とす。世話好きな所はクロウにも劣らない。拒む必要性も無い為、大人しく腕を差し出した。晒した患部は若干腫れが出始めていた。 慣れた手つきで処置は進んだ。彼はやり難いだろうと言ったが、腕の怪我はままあることだ。人の手を借りられる状況ばかりでは無いから、武人は大抵出来る処置だった。彼以外に言われたのなら、恐らく断った。ただ、そもそも断る暇も与えられなかった訳だが。 包帯を巻き終えるまでにそう時間はかからなかった。処置は見事なものだった。それは、彼もそういった処置を幾度もしてきたということの証拠に他ならない。他人と、自身にだ。 「有難うございます」 「俺の所為でもあるからな」 「貴方の所為ではありません。私が未熟だったから、怪我を負ったのです」 「お前の攻撃を捌けなかったのは、俺だ!」 頬を真っ赤にしながら反論され、不謹慎だが、浮かんだのは笑みだった。 「これではきりがありませんね。あの子供や、管理不行き届きで、聖上さえ責に問わねばならなくなります。そんな事を貴方は望みますか?」 「いや、それは……」 「誰の所為でも無い。そうではないですか、オボロ」 「……そうだな。それで良い」 オボロにも笑みが浮かんだ。ベナウィとしても、こんなことで責任を感じさせるのは不本意だ。 「ですが、治療して下さったことへのお礼は、させて頂いて構いませんね?」 「いや、別にこれは……俺が勝手にしたことだろう」 「誰にも責は無いのですから、それでは私が礼を欠く事になります」 「う……」 顎を引いたオボロとの距離を縮める。礼など口実に過ぎないと気付かれる前に。 私の、私だけの褒賞を、手に入れる。
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