ミカヅチが一歩後ろによろめいた。数瞬前にはオシュトルの顎を捉えていた手は、今は腹部に当てられている。この程度の当身では、彼にとっては大した痛手でもないだろう。 「すまない。だが、何故このような戯言を仕掛けてきた。お前らしくなかろう」 突然の口付けを拒むために、咄嗟に手が出てしまった。そうなる隙を与えたのは、己の落ち度。それを暴力で返したのだから、謝罪は当然。しかし、それと、先刻の所業を許すかどうかとは、別だ。 ミカヅチは、薄く笑っている。満足気にも見えた。ミカヅチの真意が読めない。 「……その表情(かお)を、見せたかった」 ミカヅチを見据えていた己の表情は、今は恐らく困惑に揺れていたはずだ。 誰に、そう思ったとき、初めてミカヅチの後ろに在る者に気付いた。 いつから、いたのか。いつから、見ていたのか。 ミカヅチは、薄い笑みをそのままに、立ち尽くす彼の隣を過ぎ、部屋を去った。 「……ハク……」 常なら、ハク殿と呼称していることも忘れ、その名を呼んだ。 見せたかったのは、ハクに。その意味が、オシュトルの中でうまく整理ができずにいる。 ハクは、薄く唇を開いていて、一見は驚いているようにも見えた。 けれど、ただただ、無表情だった。そう、見えた。 その表情(かお)が、オシュトルに理由のわからない痛みを感じさせていた。 あ、という形に、彼の唇が開いた。それは、何も紡がれることなく閉じられ、そのまま唇を噛むように噤む。そんな顔をさせているのが己だと、それだけは理解できた。そんな顔を、させたいわけではないのに。己の何が、彼にそんな顔をさせてしまったのか、わからない。 もう一度、名を呼ぶ前に、彼の瞳に光が戻った。 「悪い、オシュトル。後で、ちゃんと話す」 部屋を出る直前、『ここで待ってろ!』とだけ言い捨て、駆け去る足音は、早々に遠ざかって消えた。 ミカヅチを、追いかけたようだった。 「……二人とも…勝手な…ことばかり……」 苦言の言葉が零れ落ち、そんな言葉をうっかり口にしてしまった己の、彼らへの甘えに気付いて、眉を顰めた。 ハクが戻るまで、もう少し時間がかかることだろう。 それまでに。 深く息を吐き、深く吸い込む。 彼らのことを、想おう。 愛すべき人、愛すべき友。 愛されている己。 それだけは、どんなときでも、知っている。 ***** ***** ミカヅチの手が、オシュトルの顎を捉えていた。オシュトルは、無防備に、されるがままに見えた。 触れ合おうとする二人の唇が、ゆっくり近づく様を、ただ、呆然と見ていた。 『止めろ』 心の中に、嵐が吹き荒ぶ。その嵐に飲み込まれそうな気がしたのは、一瞬。 オシュトルが、ミカヅチを突き飛ばしていた。いや、殴ったようだ。ミカヅチが、腹を押さえていた。 オシュトルの朱い瞳が、ミカヅチを真っ直ぐに見据えていた。睨むでもなく、怒りを伴ってもおらず。 それでも、その朱い瞳の中の業火は、ミカヅチを拒んでいた。 嵐が遠ざかり、虚無が押し寄せた。 『違う』 二人は数言会話をしたようだった。そうして、気付かれた。オシュトルの瞳に、捉えられた。 ミカヅチが隣を過ぎていくことも、気にならなかった。 『……ハク……』 名を呼ばれたことはわかった。困惑のにじむ声音に、哀しみが少しだけ、混じっている。そんな気がした。 オシュトルが、問うている。瞳の中の火は、もうか細い。 そんな風に、させたかったわけじゃない。けれど、確かに、それを望んだのは、自分だ。 信じることが出来なかったのは、自分だ。 何かを言おうとして、しかしその全てが情けない言い訳でしかないことに、すぐ気付いた。 知らず、唇を噛んでいた。 情けない。足りない。届かない。 そんなこと、もう、とっくに、知っている! ミカヅチを、追わなければ。逃げたわけではないのだから、そう遠くに姿を消したわけでもないはずだ。 ミカヅチに、謝って、礼を言って、オシュトルは、それからだ。 決めてからの行動は早かった。部屋を出る寸前、オシュトルに、待つように言うのも忘れなかった。 彼は、待つだろう。そうでなくては、困る。 自分の中の、刻まれた細胞の、傲慢な支配者意識が鎌首を持ち上げる、そんなときがあることに、気付かないまま。 手の届かない者を、欲してしまった、あのときとは、違う。 諦めない、手放さない、そう、決めた。 自分が愛されていることは、知っている。 それに、今度は、自分が。 愛したい、応えたい、大切にしたい。 情けなくても、足りなくても、届かなくても。
|