かろうじて、それは動いた。右手がずるりと土を掻き、左手がその先へと伸びる。目前に広がる裂け目は、まさに地獄(ディネボクシリ)へと続く深遠の奈落だった。それでも、自分はその奈落の底へ、行かねばならなかったのだ。 『……生き恥を晒して、生きればいい』 白い光に包まれながら聞こえた言葉は、そう聞こえた気がするが、あの始祖の娘が言うような言葉にも思えない。だから、己が、そんな言葉で贖罪を得たかっただけかもしれない。 「ぐぅぅ……っ!!」 奈落の底に落ちた衝撃は、アヴ・カムゥの外装を持ってしても防ぎきれるものではない。しかも、受けた攻撃によって、その鎧はただの鉄の塊になろうとしていたのだから。 暗い闇の底、薄っすらと赤い色が見えた。動かそうとした右手は、もう動かなかった。鎧から這い出れば、淀んだ空気が頬を撫でる。自分達が堕ちるに相応しい場に思えた。 赤い塊は動かない。それはそうだろう。止めを刺したのは、己自身なのだから。 「……ハウエン…クア……」 身体が鉛のように重い。痛みはもう、何処からくるのか分からない。それでも、まだ己の肉体は動く事が出来た。ざしゅりと砂を踏みしめて、辛うじて膝を立たせる。彼の元まで、数歩。それが、果てしもなく遠い。 「………ェン」 空気を微かに揺らして、声が聞こえた。あれ程重かった足が、前へと進む。 触れた赤い鎧、その側に、白い影が見えた。抱き上げる。腕が悲鳴を上げただろうが、もう痛みは感じなかった。 「……ハウエンクア……!」 「……死…だ、の…生……の」 声は微かで聞き取り難い。それでも、まだ彼は、生きていた。彼の最期は己の手で。そう約束して、それでも、生きている彼の姿に狂喜している自分が居た。 「……生きている。ここはまだ…この世(ツァタリィル)だ」 彼が小さく笑みを見せた。 「……な、だ……死すら……与え……れない、のかい」 「……あぁ、そうだ」 彼の身体を背に負った。その身は、思ったよりも軽く、思ったよりも重かった。 「……ぐっ…!」 身体中がみしみしと音を立てて、そのまま壊れてしまいそうな気がする。それでも、足はしっかりと地面を踏みしめている。 「……ヒエ……」 「……死にたく、ない、と、言った」 「………ぁ……」 「……生き恥、も、満更、恥では、無かった、らしい」 ざし、ざし、と地を踏みしめて前へと進む。この底が何処まで続き、何処で終るのか、ヒエンには分からない。それでも。 希望が、あるのなら。諦める訳にはいかないではないか。 「……ハ、アハハ……ばか、じゃ、ないの……」 「……そうだな」 ヒエンに回されたハウエンクアの腕に、少しだけ力がこもった。触れた背から、彼の温もりを感じる。 「……りが、とう……」 涙に濡れた、優しい声だった。遠い遠い、過去の幻。常世(コトゥアハムル)でしか、叶わぬと思っていたけれど。 「……久しぶりに、聞いたな……」 見上げれば、光の筋が見える。地獄の底に差す光は、果たして何処へ向かっているのだろうか。それでも、進むしかない。 誰かから与えられた仮初めの力や、弱い心を隠す鎧など、最初から必要無かったのだ。 己には、大神から与えられた、肉体があるのだから。 (……あぁ、そうだったのですね…大老……) 背を覆う、この温もりが消える前に、前へ、前へ。 この弱くも誇らしい己の身体が、動かなくなる前に、もっと、前へ。 目の前に広がった真っ白な光が、どうか、ツァタリィルでみるコトゥアハムルでありますよう……。 今はただ、祈る
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