街にはチョコレートが溢れている。無関心だったこの行事も、今は少しだけ身近だった。ハクオロの説得に応じた理事長によって、14日に限りバレンタインの贈り物の持込が許可された為だ。校則を理由に体よく断ってきたチョコレートを、今年は受け取らざるを得ないかもしれない。 ウィンドウに、宝石のようなチョコレートが並ぶ。その一つを手に取ったのは、無意識の内のことだった。 「チョコレート、いっぱいだねっ」 「……はぁ」 放課後の既に空も赤く染まる時刻、それでも廊下は賑やかだった。その中、ダンボール箱一杯の包みを抱えたベナウィに声をかけたのはカミュだった。ベナウィに気兼ねすることなく話しかけてくる少女は、カミュを含めてほとんどいない。流石に今日は、見知った顔にも、見知らぬ顔にも声をかけられたのだが。 「ちゃんと、チョコ貰ってくれたんだ」 「……貴方に叱られましたから」 「エヘヘ、そのことはもう忘れてよぉ!」 『どうしてっ!?受け取ってもくれないなんてひどいよ!』 いつだったか、ベナウィが恋文を受け取りもしないと聞いたカミュが、そう言って怒ったのだ。 『好きでいるだけでもダメなんて、そんなの、カミュは嫌だよ』 それを聞いたときの衝撃は幾許だっただろうか。想う事すら許されなければ、恋慕を捨てる事の出来ない自分は、どれ程の罪悪感を抱え続ける事になっただろうか。彼を想い続ける事を許されたからこそ、己は彼と、想いを通わせる事が出来るようになったのだから。 「……あのね、これ、カミュがお姉さまに教わって作ったの」 カミュが両手で差し出すのは、掌サイズの小さな箱。 「ベナウィ兄さまにあげる。ちゃんと味見もしたし、ちゃんと美味しかったから、だからね」 「……はい、有難うございます」 自然と微笑が浮かんだ。彼に再会して、沢山の新たな出会いを経て、ベナウィも変わった、変わることが出来たと思う。カミュがえへへ、とはにかんだ顔で笑った。 「お勉強でお世話になっているお礼なの。それだけだからね!」 ベナウィの抱えるダンボール箱にひょいとその小箱を放り込んだ彼女は、アルルゥとユズハの待つ廊下の向こうへ足早に去った。廊下を走ってはいけませんよ、と声をかけるのは、流石に無粋だろうか。 「廊下を走っちゃぁ、いけやせんねぇ」 ベナウィの心の内を読んだような声が脇からかけられた。ベナウィのよく聞き知ったそれだ。 「……クロウ。見ていたのですか」 「目に入っただけですって。見ちゃぁいませんぜ」 「同じではないですか」 にっと笑うクロウは悪びれない。見られて困るわけでもないから、それでも構わない。 「貴方は、相変わらず多いですね」 「……はぁ、まぁ、数だけは」 クロウの腕にはダンボールの箱が二箱ある。校則で禁じられていながら、彼は毎年沢山のチョコレートを貰っていた。今年は更に多いようだ。しかし、クロウはそれを手放しには喜ばない。 「……野郎から貰ったんじゃぁ、自慢にならんでしょう」 「後輩から慕われる事は、良い事ではないですか」 「それは、そうなんですがねぇ」 頬をかく彼の表情は、けれどそれなりに嬉しそうだった。何だかんだと言いながら、いつも彼は皆の好意を受け取るのだから。 「大将はどちらに向かわれてんです?生徒会室ですか」 「えぇ。このままでは持ち帰れそうにありませんから」 「そんじゃ、若大将に宜しく言っといて下さい」 箱を抱えたまま片手を辛うじて上げたクロウは、何故かそう言って去った。 無人と思われた生徒会室には人影があった。それで、クロウの言葉に合点がいった。 「……扉を、開けて頂けませんか」 室内からかすかな物音がして数秒後、扉を開いたのはやはりオボロだった。 「有難うございます」 彼の横を通り過ぎる途中、感心したような呆れたような声がした。 「凄い数だな」 「……数だけは」 それは先に聞いたクロウの台詞だったが、今の自分にも当て嵌まったから拝借した。 箱を置いた室内の机には、既に沢山の包みを入れた紙袋が置かれていた。その脇には開けられた箱もある。幾つか減ったチョコレートは、彼が今まで食べていたのかもしれない。そう思うと、少しだけ胸が痛む。それは、己の欲がもたらす傲慢な嫉妬だ。 チョコレートの包みから目を逸らす。そんなベナウィの心の内などそしらぬ様子で、オボロは窓際に寄せたのだろう椅子に座った。 「貴方は、ここで何をしているのですか?」 「……ユズハを待っている」 「そう、ですか」 そこから会話が途切れた。そもそも、こういった会話が得てではない。仕方なく、己の用を済ませようと、箱の中の包みを整理し始める。 「……受け取ったんだな」 顔を上げると、オボロがこちらを見ていた。夕陽を背にしたオボロの表情は、ベナウィからは伺えない。 「……想う事だけでも許してあげて欲しいと、ある人に叱られたのです」 「……許す、か。……そうだな」 視線を逸らせた彼に、ベナウィは噛んだ唇を開いた。 「……貴方も、受け取ったのでしょう」 「あ、あぁ。つっ返すのも……悪いだろう」 外した視線は窓の外を見ている。今なら、夕陽が照れた顔を隠してくれるからだろうか。 机の上のチョコレート。 それを渡した者の想いは、届いたのだろうか。己の想いは、届いているのだろうか。 チョコレートなど、貰えるとは思っていなかった。オボロを怖がる少女は居ても、慕われる事など無いと思っていた。けれどこの学園に入り、ハクオロやベナウィや、沢山の者に会ってオボロも変わった。変わることが出来たのだと思う。 貰ったチョコレートの大半は、この学園で知り合った少女達がくれたものだった。けれど、名も、顔すらも知らぬ少女から受け取ったものもある。それを口にしようと思ったのは、単なる興味からだった。ただのチョコレートとは、違う味がするものだろうか、と。けれどそれは、想いに応えられない自分を再確認するだけだった。 ここに来たのは、アルルゥ達と共に、チョコレートを配りに行ったユズハを待つ為だったが、一人になりたかった為もあった。 それが、よりによってベナウィに会ってしまうとは。 会話が途切れ、ベナウィにもチョコレートにも視線を合わせ難くて、窓の外に視線を外した。 箱一杯のチョコレート。 そのチョコレートの味は、彼にとってはどんな味に感じるのだろうか。 「オボロ」 名を呼ばれて視線を上げた。思ったより近くにベナウィの顔があった。夕陽に染まった紅い髪と彼の翡翠の瞳が綺麗で、一瞬見蕩れた。 「口を開けて下さい」 「な、ん……」 問おうと開いた口に丸い茶色いものが放り込まれた。それは舌に触れるとすぐに蕩けて口中に広がった。 (……甘い) 放り込まれたものがチョコレートだと気付くと同時に、ベナウィとの距離が更に縮まった。彼の翡翠の瞳が瞼の内に閉じ、長い睫毛が伏せられる。チョコレートの甘さに、別の甘さが加わった。熱い舌に絡む甘さは、チョコレートのものなのか、それとは別のものなのか、その時のオボロには分からなかった。分かるのは、少女から受け取ったチョコレートに感じた苦さが嘘のような、甘さだけだ。 視界が滲むほど近くにあるベナウィの顔を、オボロは暫くただぼうっと見つめていた。あの甘さに酔ったように。 「……オボロ?大丈夫ですか?」 「え……」 ベナウィが心配そうにこちらを見ていた。彼が小首を傾げて困ったように微笑する。 「……リキュールは、入っていない筈なのですが……。それとも、チョコレートはお嫌いでしたか」 すみません、と謝る声に、オボロは慌てた。 「い、いや、違う!チョコレートは……嫌いじゃ、ない」 「そうですか。それなら……もう一つ、如何ですか」 ベナウィの長い指先に摘まれたチョコレートは、先程と同じようなものだった。ある可能性に思い至って、オボロは顔を遠ざけた。 「それは、お前が貰ったチョコだろう……!」 「あぁ、いえ、違います。私が買ったものですから、遠慮なくどうぞ」 「……買ったのか?チョコを」 「甘いものは、嫌いではないのでしょう?」 「……あぁ、それは、そうだが……」 「……貴方に、食べて貰いたかったから、では、いけませんか」 少しだけ寂しそうな顔で、彼は笑った。その時、ベナウィもオボロと同じ気持ちだったのではないか、と思えた。 「……別に、悪くはない」 彼の指からチョコを受け取る。唇に微かに触れた彼の指が、驚きに跳ねた。 熱い頬の色も、今なら夕陽の色に混ざるだろう。困惑する彼に唇を寄せながら、願った。 口中の想いの甘さが、彼にも伝わると良い、と。
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