既に誰も居ないと思われた剣道場には、夕日を浴びて佇む一人の生徒が残っていた。防具を付けた姿のまま、オボロを認めて竹刀を下ろした。自主練習の最中、といった所だろうか。 「邪魔をして、悪かったな」 「……いえ、もうそろそろ上がるつもりでいましたから」 「部活は……もう終わったのか。来るのがちょっと遅かったようだな」 「入部希望者ですか」 「……いや、日本の上位の有段者が居ると聞いたから、腕試しをしたくてきたんだが、あんた一人しかいないんじゃ、今日は空振りだったな」 「そういった発言が出来る程には、強いようですね。ですがその程度では、私にすら勝つことは出来ません。腕試しなど、諦める事です」 面を被ったままでも分かった。オボロの言葉を、彼が、鼻で笑った事が。 彼の見た目は背は高いが細身で、力のあるタイプには見えない。品の良さそうな立ち姿にしても、お稽古事の一環で剣道を嗜んでいる、そんな雰囲気があった。そんな相手から、そんな態度を受けるとは思っていなかった。 見た目で相手の強さを量る愚かをするつもりはなかったが、その時はかっと頭に血が上った。 「は、随分と舐めたことを言ってくれる。弱い奴ほどおしゃべりなものだが、貴様もそうらしいな」 「頭に血を上らせ、相手の力量も量れぬようでは、貴方に勝ち目はありません。早々に立ち去りなさい」 「こうまでコケにされたんじゃ、貴様を倒さずにここから逃げ去る事など出来んな」 溜息は吐いたが、向こうも勝負を降りる気は無いらしい。綺麗に片付けられた防具一式を、オボロに差し出した。 「手合わせを受けましょう。防具を付けなさい」 「……いらん。お前の太刀を、一筋も受けるつもりは無いからな。竹刀だけあれば良い」 面越しに見ても整った容姿。彼の珍しい翡翠色の瞳を睨む事数秒、彼は瞼を伏せた。 「分かりました。怪我を負っても、こちらでは責任を一切持ちません。良いですね」 「あぁ、良いと言っている」 「……では、貴方のその傲慢、私が叩き直してあげましょう」 指定の位置に立ち、向かい合って、そこでオボロは背筋に戦慄を覚えた。一礼の後に竹刀を合わせた時には、相手の強さが肌で伝わってきた。負けるつもりは無かったが、一筋も太刀を受けずに勝てるような、そんな生易しい相手では無かった。 オボロの硬い表情は相手にも伝わっただろう。その時点で、勝負はついていた様なものだった。 「はっ!!」 「くっ……!!」 最初に繰り出される太刀を防げたのは、ほぼ反射だった。その後、立続けに襲う攻撃は防ぐのが手一杯、こちらから伺える隙は無いに等しかった。 刻にして数秒の攻防、勝負は一瞬でついた。床に転がった竹刀の、からりと軽い音とは逆に、鋭い風切音をさせて、額の寸前でぴたりと竹刀の先が止まった。オボロの背筋に冷たい汗が流れ落ちた。 「ぐっ……!!」 「……勝負、ありましたね」 すっと相手の竹刀が引かれ、一礼する。オボロは負けた悔しさに顔を歪めたまま、ただ礼に則ってそれに倣い一礼を返した。 これ程の差で負かされるとは思っていなかった。大会の類に出るようなことはしたことがなかったが、それでも、有段者を相手にしてさえ、負けることはなかったのだ。 無駄の無い美しい動作で床に膝をついた彼は、面の紐を解き、それを外した。解かれた頭の手拭いから零れ落ちた髪は、男にしては長い。汗でしっとりと濡れた黒い髪は、夕陽で朱に染まって綺麗だった。紅い影の落ちる白い顔は、面越しに見るより秀麗で、負けたショックを一瞬忘れ、その面に見惚れた。 オボロの視線に気付いた彼がこちらを見やった。整った唇から零れたのは、冷たく辛辣な言葉だった。 「これで、いかに貴方が、己の強さを驕っていたかが分かったでしょう。腕を試すというのなら、己の強さがどれ程のものか、量れる程度にはなりなさい」 言い返す言葉は無い。確かに、己の強さと相手の強さを、オボロは量りかねたのだ。悔しさに視線を外しそうになる己を叱咤して、ただ、睨むように相手を見つめ続けた。ふと、見やる彼の視線が和らいだ。 「……ですが、これからも腕を磨けば、貴方の剣はもっと強くなります。部に入部なさい。私に、負けたままでいる気は無いのでしょう?」 その時は、負けたオボロへの慰めの言葉としか受け取れず、頬を悔しさに染めたまま、今度は視線を避けると、床に転がる竹刀を拾った。 「……俺は、オボロ。貴様の名は」 「……ベナウィです」 聞き覚えがある気がしたが、思い出せない。何処かで聞きでもしただけかもしれないが。 「負けたままで居るつもりはないが、部に入る気は無い」 竹刀を彼に突きつけると、オボロの啖呵をどう受け取ったものか、彼は何処か嬉しそうに笑った。 「っ!貴様、馬鹿にするのも大概に」 「いいえ、違います。入部頂けないのは残念ですが、私に勝つと言うからには、また、貴方と手合わせ出来るのでしょう?」 「……そんな戯言、馬鹿にしているのと同じだ!」 実際、あんなに大差で勝っておいて、その敗者にかける言葉とは思えない。 しかしこちらも、負けた悔しさにばかりこだわり、己の練習途中に、道場破りのような強引な真似をしたオボロに対し、それに応じてくれた礼だけは、欠く訳にはいかない。正面を向いて言うには羞恥が勝り、背を向けて、立ち去り際に振り向いた。 「……ベナウィ、だったな。無理を言ってつき合わせて悪かった。手合わせしてくれたことには……礼を言う。……有難う」 「礼にはおよびません。いつでもお出でなさい。歓迎しましょう」 背中越しにかけられた言葉は優しくて、彼のその好意がどこから来るものなのか分からず、悔しさと困惑のまま、オボロはその場を立ち去った。 翌日クロウに声をかけられて、彼が件の有段者であり、剣道部部長だったと知った。そして、彼の大将、すなわち生徒会長であるということも。恐らく名に聞き覚えがあったのは、その為だろう。 強さを含め、何もかもが今の自分では敵わない。悔しいが、今のオボロはそれを認めるしか無かった。
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