ふと目が覚めた。顔に光が当たっていた。太陽ではない。もっと穏やかで、熱のない光だった。 光の元に目を向ければ、バルコニーに続く障子の隙間から、光は零れ落ちていた。そこには人影もあった。外はまだ暗い。手元の腕時計を見れば、床に入ってまだ一時間も経ってはいなかった。 オボロは布団から起き上がった。障子に手をかけると、その物音で人影が振り返った。月明かりの逆光で、表情は伺えない。 「…すみません、起こしてしまいましたか」 「…あぁ…いや…。それより、お前こそ眠れなかったのか」 「……月が、綺麗でしたので」 ベナウィは、オボロを見てそう微笑んだ。微笑んだと、感じた。それは、ベナウィの声が、ひどく優しく、ひどく切なく聴こえた所為かもしれなかった。 月は綺麗な真円を描いていた。雲もかからぬその光は、想像よりも明るかった。 「…オボロさえ良ければ、少し、海岸を歩きませんか」 「…は?」 聞き返したのは、嫌ともいいとも考える前に、少し意外だったからだ。時刻は12時を越えている。深夜と言ってもいい時間だ。そんな時間に暢気に散歩など、ベナウィの口から言われるとは、誰もが思わないだろう。 ベナウィの視線がオボロから外れた。さらりとした髪が零れ落ち、彼の横顔を隠してしまう。 「…いえ、貴方は…眠った方がいいでしょう。…起こしてしまって、すみませんでした」 寂しげな声は、そもそもオボロの答えを期待していないように思えた。それが、何故か癇に触った。 「眠れと言われても、これだけ目が冴えたら眠れない。海岸の散歩くらい、付き合う」 ぶっきらぼうな言い方になった。それでも、ベナウィは機嫌を損なう事もなく、むしろ嬉しそうに、ほっとしたように、一つ息を吐いた。 「ありがとう、ございます」 「…礼を言われるような事じゃない」 彼からの柔らかな視線がどこか気恥ずかしくて、ふいと顔を逸らした。そっと笑う気配がしたような気がした。 念の為にと持ってきた懐中電灯は、灯すことなく手の中にあった。海岸線をただ歩くだけには、月明かりで十分だった。 さりさりと砂を踏む音と、ざぁ…っと寄せて返す波音だけが聴こえる。静かな夜を、ただ、無言で歩く。 少し前を歩いていたベナウィが足を止めた。オボロも足を止める。彼は、海に映る月を見ているようだった。藍を通り越し、真っ黒な海。そこに揺らぐ、光の煌き。綺麗な、光景だった。 「…月が、綺麗ですね」 いつの間にか、ベナウィがオボロを見ていた。それは、先程聴いたものと同じ言葉。確かに綺麗だった。だから、オボロも頷いた。 「あぁ…綺麗だな」 海風がベナウィの髪を撫でる。それをそっと手で押さえた彼の髪は、月明かりに光っている。綺麗だった。オボロも浚われる髪を押さえた。オボロの髪も、彼のように月明かりで光って見えるのだろうか。 「ある文豪が、言ったのだそうです。『月が綺麗ですね』と」 ベナウィの話は唐突で、オボロは少しだけ首を傾げる。ベナウィはオボロに視線をあてたまま、話し続けた。 「『I LOVE YOU』。それを彼は、そう表現した」 「『愛している』を『月が綺麗だ』と、そう言ったっていうのか?」 「えぇ、そうです」 ベナウィはまた海に視線を戻した。オボロの中で、何かが引っ掛かって、分かりそうな気がしたのに、思考は中断させられた。 「…もう、戻りましょう。これ以上は、明日に差し障りますから」 「あ、あぁ…」 ベナウィは、オボロを見てくれなかった。背を向けて、オボロの先を歩く。寄せた波が、遠ざかった気がした。 「……オボロ……?」 ベナウィが困惑した表情でオボロを見ていた。思わず彼の腕を取っていたらしい。自分でも、どうしてそんな事をしたのかよく分からない。 「あ、と……」 どう言っていいか分からないが、その腕を放してはいけない気がした。立ち尽くすオボロの、彼を掴んだ腕は、そっと彼の手によって外された。胸が痛んだ気がしたのも束の間、その手は彼の手に包まれた。 「…月明かりがあるとはいえ、砂浜は足元が不安でしょうから」 「……お、おぅ……」 オボロの本当にほんの少し前を、彼が歩く。繋いだ腕の長さの分だけ、遠く、近くに。 繋いだ手は温かで、ほっと、オボロの中の何かを包んでくれている気がした。 『月が、綺麗ですね』 彼の言葉が、オボロの胸に温かくじわりと広がった。今は、その意味に気付けないまま、それでも。
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