ピピッという電子音が鳴った。眺めた液晶に映る数字は37℃8分。微熱である。オボロの手から体温計を取り上げたベナウィが、ほっとしたような溜息を吐いた。 「……下がりましたね。まだ油断は出来ませんが、このまま大人しく休息を取っていれば大丈夫でしょう」 『たかが風邪』と言いたい所だったが、そのたかが風邪で、一昨晩は38℃以上の高熱を出した。インフルエンザかとも疑われたが、熱が高かったのはその一晩だけで、検査結果も陰性だった。 ただ、その熱の出ていた間、双子に夜通しの看病をさせることになり、今日も朝からベナウィが見舞いという名の看病と家の雑用をしに来ている。あの、ベナウィが、だ。 促されるままにベッドに横になる。優しく被せられた布団を、ことさら顔の上まで引き上げた。どんな顔で会っていいか、分からないからだった。 ベナウィに、好きだと言われた。文化祭の夜だった。友人としての好意ではない、とも言われた。それ以上の事を彼は何も言わなかったが、友人としてではない好意が何を差すのかくらいは、オボロにも分かった。 その返事を、オボロはしていないのだ。していないというより、彼はオボロの返事を求めなかった。オボロも彼の事が嫌いではない。けれど、何と応えて良いのかは分からない。だから、オボロは何も言えなかったのだ。 オボロのベッドの横に椅子を寄せて座るベナウィは、林檎を剥いていた。案外器用に皮を剥いている。基本的に何でも出来る男なのだが、料理、裁縫のような女性が嗜む類のものは苦手であると聞いた。実際、あまり器用そうではない様も見たことがあった。 「……林檎は剥けるんだな」 「……えぇ、まぁ……。……幼い頃、これだけは練習しましたので」 言葉の意味が分からず首を捻る。その表情を読み取ったらしいベナウィが、少しだけ眉を下げて困ったように笑う。 「……私が小学生の頃でしょうか。こうして林檎を剥いて…看病したい人が、居たのです。…今の貴方のように」 「……そうか……」 彼は遠い日の記憶を思い返しているのか、何処か遠くを、優しげな瞳で見ていた。詳しく聞くことは躊躇われたので止めた。ベナウィの家族の事は、よく知らない。オボロにはユズハという身体の弱い妹が居る。それを恥じる事などないが、吹聴されたい事でもない。ベナウィの語ったその人は、彼にとってとても大切な人のように思えた。彼が自ら語らないのなら、語りたくないのかもしれない。それに、どうしてだか、オボロはその人の事を、知りたいようで知りたくなかった。何にも執着しないように見える彼に、あんな風に優しい表情をさせる大切な人が居たと言う事が、少なからずオボロの胸を重くしたからだ。 友人としてではない、そう言われた。それは、家族のように、という意味だったのかもしれない。大切な人が、居るのかもしれない。自分は、大きな勘違いをしていたのではないか、不意にそう思い、不安になった。 「……お前、こんな所に居ていいのか」 「……どういう意味でしょうか?」 「………今日は…クリスマスイブだろう…。俺はあまり興味がないが……普通は、家族や……大切な人と、過ごすんだろう。だから、俺なんかに構っていないで……」 ベナウィの目が細く眇められた。怒らせた、と分かった。 「あ、いや…すまない……。看病に来てくれて、ありがたいが、その」 「……いいえ、貴方が謝る事はありません。私は貴方の傍に居たいから、ここに居るのです。貴方が例え病の身でなくとも」 綺麗に摩り下ろされた林檎の入った器が差し出された。少しだけ起き上がって受け取った。掌に冷やりとしたそれは、熱の篭った身には心地が良かった。ベナウィが、少しだけ視線を落とした。 「……ですが、貴方の迷惑だったのなら、私は帰ります」 「な、違……っ!」 ベッドから身を乗り出し、彼の腕を思わず取っていた。片手には器を持ったまま。身体のバランスが崩れた。目眩もした気がする。 「オボロ!!」 倒れるかと思われた身体はしっかりと支えられていた。目眩に茫洋とした視界には、滲むほど近くにベナウィの顔があった。顔が火照ったのは、熱の所為だろうか、そうではないのだろうか。オボロにはよく分からない。 「……お前が傍に居てくれて…良かった。だから、行かないでくれ……」 上目遣いに見たベナウィの顔は驚いているように見えた。それが、すぐに柔らかな笑顔に変わった。 「……えぇ。貴方が、そう望んでくれるのなら」 「……そう…か…。良かっ…た…」 頭も視界もふらふらする。やはり熱が上がったのかもしれない。揺れる視界を遮ろうと瞼を閉じた。唇に一瞬だけ、少し冷たい感触が触れた。 それが何だったのか確かめる間も無く、ベッドに再び寝かされた。 「……眠った方が良さそうですね」 「……だが…林檎……」 「また、剥きますから」 「……お眠りなさい……」 ベナウィの優しい手が髪を梳いた。そのまま、オボロは眠りに意識を手放した。 日が落ちて久しい時刻には、オボロの熱はかなり下がっていた。薬も効いたのだろうし、よく眠ったことも良かったのだろう。 目が覚めた時にも、ベナウィはそこに居た。オボロの手をそっと握ってくれていた。その手だけは、熱があるように熱く感じる。その掌に、冷たい金属の感触が触れた。小ぶりの懐中時計だった。ベナウィの手にも、同じような時計があった。少し古びた時計だが、いい物のように見える。 「…貰って頂けませんか」 「……俺に……?」 「そうです。……貴方の傍で、貴方と同じ刻を過ごしたい。……私の勝手な願いを込めたプレゼントになってしまいますが…いけませんか」 「……いや…ありがとう……」 ベナウィの肩の力が抜けたのが分かった。オボロに分かるほど、彼はほっとしていた。付き返されると思っていたのかもしれない。 お互いの手の中にある時計の針は、驚く程正確に同じ刻を刻んでいた。確かに今、彼と共に同じ刻を共有していると感じられる。それが、嬉しかった。 「……俺で、いいのか。……お前は」 「……貴方でなければならないのです。……オボロ、貴方は……?」 ベナウィの瞳が愛しげに細められた。そう、思った。遠い日に見たような気がする、翡翠の瞳。その瞳が、初めてオボロに応えを問うた。 「………俺は……」 カチカチと確かな刻を刻む二つの時計の音が、静かに重なる。
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